1974-04-26 第72回国会 参議院 本会議 第19号
昭和十八年、専売局長官に任ぜられ、戦時下の専売事業に精根を傾けられました。しかし、二十年四月、みずから職をお引きになりました。 当時、第二次世界大戦末期にあたり、しばらく職を離れ心身の疲れをいやしたいというあなたの希望はかなえられず、同年六月末には南満洲鉄道株式会社理事という重い職務をいやおうなく命ぜられました。
昭和十八年、専売局長官に任ぜられ、戦時下の専売事業に精根を傾けられました。しかし、二十年四月、みずから職をお引きになりました。 当時、第二次世界大戦末期にあたり、しばらく職を離れ心身の疲れをいやしたいというあなたの希望はかなえられず、同年六月末には南満洲鉄道株式会社理事という重い職務をいやおうなく命ぜられました。
また、現同行副頭取秋元君は元専売局長官、おそらく善意に解釈すれば埼玉銀行に目付役として派遣されたのでありましょう。こういうことからいたして、このことを銀行の幹部も全く知らない、大蔵当局が知らないなどと言うのは納得できないのであります。その後おそらくこの点を調査されたと思いますから、監督官庁である大蔵大臣にこの点について詳細に承ります。
お手元の履歴書で御承知願えますように、荒井氏は、大学卒業後、大蔵省に入りまして、銀行局長、専売局長官等を歴任をいたし、昭和十五年二月に退官後は、株式会社日本興業銀行副総裁に就任、同二十一年六月には会計検査院長に任ぜられましたが、翌二十二年八月退官をいたしました。
私かつて専売局長官をいたしておりましたので、こうした塩の価格のきめ方についても、当時のことは一応知つておるつもりであります。仰せのように外国塩を安く輸入して、それでもつて国内産の塩との間で適当な価格調整ができないかという問題ももちろん考えたこともございます。
そのうちに今年のような増収のあるときも、ちようど税の自然増みたいなもので、これをちよつと使つて行くということは、あはたが専売局長官におなりになつてもできないと思うのであります。
荒井君は、大正三年七月大学卒業後、直ちに大蔵省に入り、その後昭和十五年二月に退官するまで、終始同省の本省及び地方の各部局に勤務し、その間、名古屋及び東京の各税務監督局長、大蔵省銀行局長、専売局長官等を歴任し、退官後は、日本勧業銀行理事、日本興業銀行副総裁等に就任いたしましたが、昭和二十一年六月会計検査院長に任ぜられ、翌年八月退官いたしました。
植木君は、大正十四年三月大学卒業後大蔵省に入り、松本、岐阜名古屋の各税務署長、主計局調査、予算の各課長を歴任し、昭和二十年四月専売局長官に任命され、翌年退官の後、日塩株式会社取締役会長に就任した者であります。 川俣君は、日本農民組合中央執行委員となり、その後衆議院議員に当選し、鉱害調停委員、小作争議調停委員の職にありました。
一例をとりますと、専友社のごときは、その会社の中に元の専売局長官が一人、二人、三人、四人も顔を並べている。しかもこれが生命保険の代理店をやつて莫大なもうけをしておる。しからば重役として常勤した者はおるかと聞いてみると、ほとんどが出て来ないのであります。そうして高給をはんで看板を貸しておる。ここに私は国民の一大疑惑がわいて来ると考えざるを得ない。
少くとも前専売局長官ともあろう者が、その末端のか弱い者に対して、いわゆる生殺与奪の権を握つておるといつてもよろしい。実際握つておるのだ。タバコの耕作者にしても、タバコの小売人にしてもそうだ。あるいは塩にしても何にしてもみなそうだ。こういうような方面にとりに行くということは、あなたは知らぬわけはないと思うが、これはどうですか。
こういう大蔵省の前主税局長、財務局長、専売局長官という会社の重役メンバーを見て、民間人はあなた一人じやないですか。それをひとつはつきり聞きたい。参考になるから、私は伺うのです。
○森田証人 それは戰前までは、重役の就任及び会計の決算は、専売局長官の認可を経て就任し、あるいは決算する、こういうようなことに定款にうたわれてありました。戰後その点は除かれましたが、精神は依然としてその精神で行われております。現在は積み地の株主関係と公社関係と、それから社員関係、等数で役員は出ております。それが監査役及び取締役になつております。但し社長は専売局から来られております。
あなたはそうおつしやつても、この前の専売局長官の野田さんでしたか、大分苦しい答弁をされたことがある。事実上において安い外塩がどんどん入つて来る。そうすると国内製塩業者は放置されるという傾向が大分見えて来た。特に先ほどお話申し上げたように百五十七万トン入つて来る。まだまだこの先たくさん塩が入つて来るだろうと私は思う。
またこれに対する御見解を専売局長官にお尋ねいたした。